栄光と病魔の狭間で・・・

室井  清陽

 昨年(平成21年)12月2日、シルクロードを題材にした絵で著名な日本画家平山郁夫が死去された。 平山郁夫は、広島原爆の被爆者である。
 昭和20年8月6日午前8時15分、学徒動員中の平山郁夫は広島上空にてB29からの落下傘投下を目撃する。純白の落下傘がキラキラ輝きながら降りてくるのを仲間に報せに作業小屋に入る、と同時に背後から大閃光に包まれる。原子爆弾の投下であった。
 九死に一生を得た平山郁夫は、東京美術学校日本画科へ進み、日本画家を志す。
 しかし、20代後半、原爆症発症。白血球が通常の半分以下となる白血病である。生きるか、死ぬか、負けるかどうか。生死のギリギリのところで、「一枚でいいから、後の世に残る絵を描きたい」と切実に思う。
 そして、その格闘の中から、自分の描くべき絵のテーマをつかみ、思いの一作を描き上げる。「仏教伝来」がその一作だという。
 以下、平山郁夫の命運を研究してみたい。
(以降、登場人物の敬称は略させていただきました。)

生時について

 平山郁夫は、日本画家であり、教育者であり、さらに、文化財赤十字構想を提唱し、国際文化交流と世界の文化財保護活動のリーダー格的存在であった。 画家としては、日本画壇の第一人者と評され、また、第6代・第8代東京芸術大学学長を務めた。平成10年文化勲章を受章している。

 生時推定のポイントとしては、

① 日干丙火午月生まれの「建禄格」。大運は西方から北方を巡っており、平山郁夫の事象よりして、大運の西方運及び北方運に十分耐え得られ喜となる日干強の命であろう。
② 調候を兼ねた偏官壬水月干に透出し、日支申に有気。水源は年干と日支申中に二庚金あり。これ以上の水は調候太過となる。また、月干の壬水は、年月支の二午火と日干丙火を制火するに十分である。
③ 五行流通、殺印相生の視点よりして、時柱に木の印があることが望ましい。無木とか、木無力で、水火尅戦となるのは宜しくない。
④ 日干丙火と月干壬水が輔映湖海となるか否かは、時柱の干支による。輔映湖海となる条件は、日干不強不弱以上であること、壬丙尅の情が専一であることである。
⑤ 妻縁と子女縁の視点。妻縁良好で、一男一女あり。(後述の事象参照)
⑥ 平成21年己丑年(79才)脳梗塞にて死去。

 右の①②③の視点より、日干弱となる生時とは考えられず、また、日干不強不弱となる生時も無理があると考えられる。
 よって、生時、戊子刻、己丑刻、壬辰刻、戊戌刻、己亥刻、庚子刻は消去する。
 次に、残った生時を検討する。

  • 庚寅刻生、申寅冲去。接近して日干丙火は二午に有根。壬丙尅、丙庚尅の情不専で、壬丙尅の情専一ならずして輔映湖海の象とはならず。さらに、食傷の土、殺印相生の印の木、ともに断節する。
  • 辛卯刻生、日干の有情なる根は月支の午支。時支卯木の印あって、火土金水木火と五行流通する。本命も、壬丙尅、丙辛合の情不専で輔映湖海の象をなさず。
  • 癸巳刻生、申巳合去。接近して日干丙火は二午に有根。壬丙尅情専一にして輔映湖海の象をなすが、癸水は丙困となって食傷の土と印の木が断節する。
  • 甲午刻生、壬丙の輔映湖海の象。火土金水木火と五行流通、始終と精神あり。
  • 乙未刻生、未土は申支と並び、やや湿土となる。火土金水木火土と五行流通し、この刻も始終と精神あり。輔映湖海の象。
  • 丙申刻生、日時柱がともに丙申刻となる。調候太過し、殺印相生の印の木が断節。結果として輔映湖海というよりも、むしろ、水火尅戦の様相を呈す。
  • 丁酉刻生、火旺の日干丙火にて、丙火奪丁し、時干の丁火は丙火的となる。原局においては輔映湖海の象をなすも、印の木が断節し、水旺運は水火尅戦ともなる恐れを内蔵している。

 以上であるが、

① 配偶者の事象よりして(後文の事象参照)  日支去となる命とは考えられず、また食傷の土と印の木が断節し、輔映湖海の象ともならない庚寅刻、癸巳刻は消去する。
② 水火尅戦となる丙申刻も消去する。
③ 原局においては輔映湖海の象となるも、印の木が断節し、運歳において水火尅戦の恐れある丁酉刻も消去する。  残るは、辛卯刻、甲午刻、乙未刻の三刻であるが、
④ 常に新しい創造をめざして格闘した平山郁夫の事象よりして、輔映湖海の象とならない辛卯刻も消去する。
⑤ 甲午刻、乙未刻の二刻生は、いずれも五行具備し輔映湖海の象ともなるが、印の甲木と乙木の干の特性の違いと、 時支にも日干の有根となる午火ある甲午刻の方が、大運の北方運、丁亥、戊子、己丑の各大運の喜象がより大きいと考えられ事象に合致する。

 よって、生時は甲午刻と推定する。

解 命

原爆と輔映湖海

 日干丙火、午月火旺丙火分野の「建禄格」。
 調候壬水が月干に透出し日支申に有気。水源の庚金が年干と日支申中にあって生水し、調候壬水有情にして有力。全局に生気充実。
 日干丙火は年支の午火には無情であるが、月支と時支の午火に有根。時干の印の甲木が火源となって生火。この甲木は無根であるが、日支申中の壬水より生木されるのみでなく、月干壬水と日支申中の己土より己土濁壬養木をもされている。 日干丙火の干の特性は、「丙火猛烈」であり、「五陽皆陽丙爲最」であり、この日干丙火は二午に通根して両足を大地に踏みしめる形の日干旺強である。
 干の特性として、丙壬不離、壬丙不離といわれる壬水が月干に透出し、有情有力となって、調候であるとともに制火の効を発揮し、年月支の二午と日干丙火をよく制火している。 また、日干丙火は日支申中の余気己戊土に洩身し、日支中で己戊土生庚金生壬水と順生もしている。つまり、日干丙火の「精」充実して、「神」は月干に透出し、調候とも制火護財の効ともなる偏官壬水であり、日支中の吐秀となる食傷己戊土であり、食傷生財と生じられ壬水の水源となる偏財庚金でもある。 偏官と食傷と偏財がよく団結して、日干丙火「精神」あり。時干に印の甲木あるゆえ、壬水を用神とは取りがたく、食傷生財生官殺と流通しているので、財の庚金をもって用神と取る。喜神は土金、忌神は木火、閑神水となる。
 「始終」は、年月支の二午中の丙丁火より、日支申へ、生己戊土生庚金生壬水と流通し、壬水生甲木、甲木生日干丙火及び時支午中の丙丁火と終わる。 食傷の土が透出しておらず、日支申中の余気己戊土のみで弱いのが難といえば難であるが、日支にある点、月支と時支の余気丙火が左右にあって納火に有情である点、壬水が有情にして有力で旺強の丙火を納火しても燥土となる憂いがほとんどない点がよろしいと言える。つまり、「始終」よろしく、「精神」あり。
 特筆すべきは、日干丙火と偏官壬水が並び、輔映湖海の象をなすことである。壬水が丙火を尅し、尅される丙火と尅す壬水がともに量的な減力となることを越えて、質的な意味の弁証法的な良好性が生まれるといわれる干と干の関係である。 壬水は智恵であり、丙火は愛の心であり、智恵によって愛を磨く、 あるいは、愛によって智恵を磨く。その切磋琢磨を通じて智恵と愛がより高度ななにものかに昇華される、と解したらよいであろうか。本命を考察する中でそのことを追求・検証して行きたいと考える。
 日干丙火、全陽にして輔映湖海の象。名刀というよりも、大ナタの如き威力(パワー)を秘めた、正に「順遂」にして「清純」なる命である。
 干の変化を見ると、喜神は戊己庚辛。己土のみ己甲合去。大運土旺の場合は化土して甲木は戊土に変化するが、日干丙火は二午に両足を踏んばる形にして「土衆成慈」、喜の作用に変わりはない。忌神は甲乙丙丁。甲木は甲庚尅去。乙木は乙庚合去、大運金旺の場合は化金して乙木は辛金となり喜である。 丙火も丁火もともに去とならないが、有力な壬水がよく制火して忌の作用を軽減する効果大である。
 支の変化は、巳が来ると巳申合去となるが、水源の庚金が年干にあって月干壬水は接近した時支午火を制する薬ともなる。大運に巳が来ることはない。酉が来ると一酉三午蔵干の尅となるが、壬水の制火あり。戌が来ると一戌三午半会以上となるが、戌中の蔵干は丁丁であり、やはり月干壬水が制火の薬となる。
 以上、原局と十干十二支の係わりを見ても、日干が強であっても強旺となり過ぎて無依となる可能性はほとんどないと言える。
 よって、「源清」。

 次に、大運を観ると、

第一運癸未運
 一未三午妬合の情不専。原局壬水有力にて、未支中の己土も湿土となる。火旺四年は喜忌参半、土旺六年は喜の傾向性ある大運。
第二運甲申運
 甲庚尅去。金旺の申運であり、日支申とあいまって、日支申の喜象が強化される、喜の傾向性ある大運。
第三運乙酉運
 乙庚干合化金。乙木は辛金に変化する。一酉三午の蔵干の尅。原局の偏官壬水がよく制火護財して喜の傾向性ある大運。しかし、一酉三午の蔵干の尅の情は無視できないものがあり、単純に喜とのみ解すべきではない。
第四運丙戌運
 丙庚尅、丙壬尅の情不専。一戌三午火局半会以上。原局の壬水が有力にして、大運干丙火と戌中の二丁火をよく制火護財して忌象を抑え、むしろ、比劫の二業、三業の積極性、活動範囲の拡大等の喜象ともなる。これは、流年が戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑と続き、その後、甲寅、乙卯、丙辰、丁巳。流年まで見ると、この大運は喜忌参半というより、喜の方が大となる傾向性ある大運。
第五運丁亥運
 丁壬合にて、壬丙解尅。丁火は原局の月干壬水より制されて忌とならず。壬水は水旺運の亥支に有根となり、亥中に甲木あって時干甲木有気となり、水生木の情もあるが、三午火をよく制火して、喜の傾向性ある大運。
第六運戊子運
 戊壬尅、戊甲尅の情不専。一子三午両冲、子申水局半会の情不専。原局に不足していた食傷の戊土が大運干に透出。大運支子水を制するとともに湿土となって、戊土生庚金、庚金生壬水、壬癸水生甲木、甲木生日干丙火。五行流通と「精神」がより大きく確固としたものとなる。才能発揮、その評価、社会的地位と環境、後援者、人間関係ともに、さらに良化、拡大される、大喜の傾向性ある大運。
第七運己丑運
 己甲合、水旺四年合去。土旺六年化土し、甲は戊に化す。前運の喜を引き継ぎ、印の甲木が去、または戊土に化すことにより五行流通は阻害されるが、日干強であり、土旺も「土衆成慈」であり、喜の傾向性ある大運。食傷の才能発揮、創作活動への意欲衰えず。
第八運庚寅運
 庚丙尅、庚甲尅の情不専。一寅三午の火局半会以上、寅申冲の情不専。庚金水源となるが、木旺の寅支は時干甲木の根となり、日干丙火は有気となる。忌の傾向性ある大運。
 よって、「流清」。

運 程

立運前

(年齢は満年齢、丸は疾病)
 年月干喜神の木火、兄一人ある中流以上の裕福な家庭に生まれる。

  • 父峰市、母ヒサノの次男、4男5女の3番目として瀬戸内海に浮かぶ生口島(いくちしま)に出生。平山家は三百年以上も続く旧家で、菩提寺の寺伝によれば、初代の柴田孫左衛門は、戦国武将柴田勝家の孫とされる。島でも古い地主で、先祖代々信仰心が厚く檀家総代をつとめてきた家柄。父は僧侶になる修行半ばで見込まれて平山家に婿養子に入る。
  • 1才辛未、2才壬申、3才癸酉、4才甲戌、5才乙亥、6才丙子、7才丁丑とほぼ喜の流年が続く。瀬戸内海の温暖な気候に恵まれた美しい風土と、信仰心の厚い両親の深い愛情に育まれる。絵は小学校へ入る前から好きで、なにもかもがのんびりした島の生活、遊び相手がいない時は道路に船や戦車の絵を描いて無心に遊んでいた。
  • 7才丁丑年、瀬戸田尋常小学校入学。
    丁丑年の癸丑月半ば頃大運に交入する。

第一運 8才~18才 癸未
 一未三午妬合の情不専。大運干癸水、原局壬水有力にて未支中の己土も湿土となり、原局の金を湿土生金する。火旺四年は喜忌参半、土旺六年は喜の傾向性ある大運。
 生家は地主で家作からの収入もあり、父は町の仕事や寺のことにもっぱら精を出し、「金があり過ぎると、人間なまるからいけない」、「児孫に美田を買わず」が持論で、家賃が払えない店子が入れば借金を棒引きにし、寄付を頼まれれば誰よりも早く一桁多い額を納める。戦後の農地改革も重なって、ついには先祖が築いた財産を見事になくす。母はスパルタ教育で、予習復習を毎日義務づけ、病気であろうと学校は休んではいけないという信念で、厳しく子供を育てたようである。
 そんな両親のもと、元気活溌、教室で騒ぐ、いたずらをする、走り回るで、よく廊下に立たされ、親も学校へ呼ばれたという。しかし、成績は優秀で、特に絵と水泳が得意。絵は大きな大会にも入賞し、これを父がことのほか喜ぶのが嬉しくて励みになったという。
  • 13才癸未年、瀬戸田尋常小学校卒業。前々年辛巳年に始まった太平洋戦争の影響で、のんびりした島の暮らしに容易ならざる気配がしのびよる中、県立一中の入学試験を受けるが、体操と面接だけの試験で、体操の課題の鉄棒でしくじる。気を取り直して広島市の修道中学校入学。
  • 14才甲申年、戦時体制下、修道中学での寄宿舎生活の食生活の貧しさから体調を崩し、夏休み明けから下宿住まいを始める。孤独と空腹をまぎらすために絵を描くことが唯一の趣味となる。
  • 15才乙酉年、8月6日、学徒動員先の広島市内の陸軍兵器補給廠(しよう)(現在の広島大学医学部)での作業中に、冒頭に書いたように原爆に被災する。爆心から4キロ弱の地点だったが、一度爆心から2キロ弱の下宿先に戻ったりした後、地獄絵さながらの広島を逃れて翌朝生家に帰り着く。15才の中学生が受けた、心と身体に生涯残る、その後の平山郁夫の原点となる体験である。 被爆後、重い放射能障害で死線をさまようが、九死に一生を得る。休養後の11月、広島県忠海中学校へ転校する。
  • 17才丁亥年、忠海中学を4年で修了。  東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科予科に入学。この選択は忠海中学の下宿先でもあった大伯父(母方の祖母の兄)の彫金家清水南山の強い勧めによるものである。東京美術学校の彫金科教授であったこの大伯父から美術論、芸術論、そして、画家としての心構えの教示を得る。特に、古典の勉強と自然から学ぶことを教えられる。
第二運 18才~28才 甲申
 甲庚尅去。金旺の申運であり、日支申とあいまって、日支申の喜象が強化される、喜の傾向性ある大運。
  • 18才戊子、19才己丑、20才庚寅、21才辛卯と日本画科本科四年。同時に入学した学生の中で最年少で、特に絵の技法を学んでいなかったためまわりの技量に圧倒され悩む。また、この頃の風潮として日本画否定論が興ったこともあり、何をどう描けばいいか方向性を見失い、一時は画家を断念することも考えるが、日本美術史の谷信一教授の懇切な説諭もあり。自信を取り戻し、以後猛烈な研鑽に励む。 小林古径、安田靫彦(ゆきひこ)教授らに師事する。
  • 22才壬辰年、美術学校を卒業。卒業制作「三人姉妹」は第二席で同校買上げとなる。ちなみに主席は後の夫人となる松山美知子の「坐像」。卒業と同時に、改組された東京芸術大学の副手となる。新任の前田青(せい)邨(そん)教授につき、以来前田青邨教授に師事する。
  • 23才癸巳年、前年の院展で落選した「家路」にさらに工夫をこらして再度応募し、院展初入選となる。また、東京美術学校の同期生松山美知子と婚約。プロポーズの言葉は「君と一緒だったら、世界を征服できると思うんだ」。日本画科助手となる。
  • 25才乙未年、前田青邨夫婦の媒酌で松山美知子と結婚。日本美術院院友に推挙される。松山美知子も院展入選を果たしていたが、一家に二人の画家は並び立たないという青邨の言葉で、結婚と同時に自ら絵筆を折る。平山郁夫が住んでいた六畳一間の安アパートにて新婚生活を始める。妻美知子は学校を辞め(平山とともに助手をしていた)、家計を助け、アトリエ付きの自宅を建てる目標を立てて、女子高校の美術の時間講師の職を二つ見つけて働き始める。
  • 26才丙申年、長男廉誕生。被爆者のため子どもはできないかもとの心配は杞憂となる。しかし、
  • 27才丁酉年、秋に平山郁夫の体調悪化。医者から、極度の貧血のうえに、白血球が通常の半分以下となる原爆症の白血病で死の危険がある。目下は治療法もないと言われる。「一枚でいいから、後の世に残る絵を描きたい」「一枚でいいから、自分の気持ちを完全に注ぎ込んだ作品を描きたい・・・今の自分にとっての救いはそれしかない」と切実に思う。死の恐怖と対峙しながら、大学の学生を引率して青森県の八甲田山を巡る写生旅行に出かける。そこで見た奥入(おいら)瀬(せ)の風景の美しさに生命力の蘇りを感じる。
第三運 28才~38才 乙酉
 乙庚干合化金。乙木は辛金に変化する。一酉三午の蔵干の尅。原局の偏官壬水がよく制火護財して喜の傾向性ある大運。しかし、一酉三午の蔵干の尅の情は無視できないものがあり、単純に喜とのみ解すべきではない。つまり、癸未大運乙酉年に原爆に被災。甲申大運丁酉年に後遺症の白血病発症。そして、この大運が乙酉大運。すべて酉午蔵干の尅が係わる。壬水の制火があるとはいえ、蔵干の尅がなくなったわけではない。
  • 28才戊戌年、一酉三午蔵干の尅はあるが、申酉戌西方成立。長男廉を生口島の実家に預ける辛い決断をする。 平山郁夫の病気、農地解放で田畑を失った実家への仕送り、廉が病弱であったこと、何より平山郁夫に絵を描かせるために夫婦で決断する。 再び、大学の秋の恒例の八甲田山への写生旅行へ原爆症に耐えながら死ぬような思いで参加する。旅から戻ったある日、 新聞の小さな記事「東京オリンピックの聖火、シルクロードを通る」を見た平山郁夫に一つの構想が浮かぶ。馬に乗った三蔵法師が帰途、 とあるオアシスに辿り着いた情景である。
  • 29才己亥年、長女弥生誕生。生後まもなく弥生も廉とともに実家に預ける。前年浮かんだ絵の構想、 インドに仏法を求めた中国・唐代の玄奘三蔵法師のイメージを具象化する。体は疲れ切っているが、心は真理に出会えた喜びに満たされている。 緑なすオアシスに咲く花は、地獄の苦しみを優しく癒してくれる。描くべきはこのような世界ではないかと確信する。 そして、この死を覚悟して救いを祈る思いを込めて描いた「仏教伝来」は院展で注目を浴び、平山郁夫の芸術の出発点となる。この作品により画家として生きる方向を見い出す。
    年末、板橋区成増へ転居。苦しい中から妻が積み立てていたお金を元手に借金してアトリエ兼住まいを建てる。「仏教伝来」が評価を得、方向が見えてくると、 不思議なくらい白血病の体調が戻り快方へ向かう。この作品を描くことで文字どおり自分は救われたと、後年平山郁夫は述べている。
  • 30才庚子年、仏教をテーマに描くことは固まったが、何を描くか。院展出品作「天山南路(夜)」は、教典を携えて帰る求法僧たちの希望と旅路の不安を描いている。
  • 31才辛丑年、義父の死を一人で看取ったことよりヒントを得て、釈迦の入滅を描いた「入涅槃幻想」で、 日本美術院賞(大観賞)受賞。美術院特待(無鑑査)に推挙される。東京国立近代美術館の買上げとなる。
  • 32才壬寅年、「行七歩」が春季院展奨励賞、「受胎霊夢」が日本美術院賞(大観賞)を各々受賞する。 8月、生口島の実家に預けていた二人の子どもが戻る。長男廉5才、長女弥生3才。10月より平山郁夫は、第一回ユネスコ・フェローシップにより、 6ヶ月に渡るヨーロッパ留学をする。研究題目は「東西宗教美術の比較」。ヨーロッパ各地の寺院・街角をスケッチしながら、自分の進むべき日本画の将来は、 西洋の美術がキリスト教を背景とするように、仏教を背景としたインド・シルクロード・中国という分厚い東洋の伝統を背負ったものでなくてはならないとの決意を固める。
  • 33才癸卯年、苦行ののち悟りを開いた釈迦を描いた「建立金剛心図」で院展奨励賞(白寿賞・G賞)を受賞する。
  • 34才甲辰年、東京芸術大学美術学部日本画科文部教官講師となる。日本美術院同人に推挙される。 「続深海曼荼羅」「仏説長阿含経巻五」が院展文部大臣賞を受賞。「受胎霊夢」から「仏説長阿含経巻五」に至る一連の仏伝シリーズに対して第4回福島繁太郎賞が贈られる。
  • 36才丙午年、東京芸術大学オリエント遺跡学術調査団に参加。初めて訪れたイスラム圏、 トルコ・カッパドキアの洞窟修道院壁画の現状模写に従事する。
  • 37才丁未年、法隆寺金堂壁画再現事業に参加。安田靫彦、前田青邨ら日本画壇の総力をあげたメンバーが集結。 最年少の平山郁夫は3号壁、観音像の模写を担当する。
第四運 38才~48才 丙戌
 丙庚尅、丙壬尅の情不専。一戌三午火局半会以上、原局の壬水が有力にして、大運干丙火と戌中の二丁火をよく制火護財し忌象を抑え、 むしろ、比劫の二業、三業の積極性、活動範囲の拡大等の喜象ともなる。流年が戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑と続き、その後、甲寅、乙卯、丙辰、丁巳。流年まで見ると、 この大運は喜忌参半というより、喜の方が大となる傾向性ある大運。平山郁夫の人生の、起承転結の転の部となる。
  • 38才戊申年、前年の法隆寺金堂壁画の源流を訪ねて、アフガニスタン、中央アジアを夫人と二人で取材旅行する。 玄奘三蔵が旅したシルクロードに立ち、シルクロードの風物にふれることで、シルクロードは戦争が始まると交易が途絶え、平和が訪れるとまたキャラバンが行き交う。 シルクロード自体が平和の象徴だと気づく。この旅が平山郁夫の歴史に対する見方を深めさせ、人の営みへの信頼を生み、そして、絵に対する取り組み方を変える大きな転機となる。 以後20年にわたって毎年のように、シルクロードと仏蹟の取材旅行は敢行される。シルクロードが描くべき絵のテーマとなる。
  • 39才己酉年、東京芸術大学助教授となる。
  • 42才壬子年、鎌倉へ新居を建て、転居。
  • 43才癸丑年、東京芸術大学教授となる。
  • 44才甲寅年、バチカン宮殿内現在宗教美術コレクションに、前田青邨「細川ガラシャ」、平山郁夫の近作「古代東方伝者」を寄贈。
  • 45才乙卯年、念願がかない中国を初訪問。
  • 46才丙辰年、全国6都市で「平山郁夫シルクロード展」が開催される。新作に対して、新潮文芸振興会より日本芸術大賞を受賞。
  • 37才丁未年、白リスト3白リスト3
第五運 48才~58才 丁亥
 丁壬合にて、壬丙解尅。丁火は原局の月干壬水より制されて忌とならず。壬水は水旺運の亥支に有根となり、亥中に甲木あって時干甲木有気となり、水生木の情もある。 三午火をよく制火して、喜の傾向性ある大運。
  • 48才戊午年、師である前田青邨を題材とした「画禅院青邨先生還浄図」が院展内閣総理大臣賞を受賞する。
  • 50才庚申年、奈良薬師寺から薬師寺玄奘三蔵院の内陣の壁画を描くことを依頼される。平山郁夫は、これを画業の総決算となるものにしたいと考え、 三蔵院内陣だけでなく、自ら絵所(えどころ)を寄進して玄奘が足かけ17年の歳月をかけて歩いた道を今に再現しようと思い立つ。5月、鎌倉の自邸内で、 この薬師寺玄奘三蔵院に納める絵を描くための「絵所開き」を行う。完成まで20年を要する。
  • 56才丙寅年、38才から約20年にわたるシルクロード行の総決算となる中国タクラマカン砂漠を周回する大旅行で、 幻の都楼蘭(こうらん)に戦後外国人として初めて足を踏み入れる。ここに玄奘三蔵の足跡を追体験する旅は終わる。その間に描かれたスケッチブックは二〇〇冊、 スケッチ点数は四〇〇〇点を超える。取材旅行一五〇回を越え、行程は四〇万キロに及ぶ。
    海外取材にはほとんど夫人が同行し、マネージャー役を務めている。
    「絵の事しか考えない私にかわって、雑事一切を手際よくこなしてくれるのも妻であり、旅先でスケッチする私の傍らで鉛筆を削ったり、炎天下の日陰を作るために日傘を差し掛けてくれるのも彼女である。 私が家庭のことにあまり興味を示さずにいても、平山家は微動の揺るぎもせず円滑に推移している。何よりも私の芸術の最も良き理解者であってくれることに感謝しなければならない。 掛け値なしに最良の伴侶を得たと、私は思っている」と平山郁夫は述べている。
第六運 58才~68才 戊子
 戊壬尅、戊甲尅の情不専。一子三午両冲、子申水局半会の情不専。原局に不足していた食傷の戊土が大運干に透出。大運支子水を制するとともに湿土となって、 戊土生庚金、庚金生壬水、壬癸水生甲木、甲木生日干丙火。五行流通と「精神」がより大きく確固としたものとなる。才能発揮、その評価、社会的地位と環境、後援者、 人間関係ともに、さらに良化、拡大される、大喜の傾向性ある大運。
 仏教をテーマにした絵から始まって、シルクロードの風物を描き、この大運は、無限の情感にあふれた日本の風景の大作が多い。
 さらに、文化財赤十字構想を提唱し、歴史の生き証人である遺跡や文化財を守ることは平和の象徴にほかならないとの認識のもと、 国際文化交流、世界の文化財保護に私財を投じるなど率先して参画する。
  • 58才戊辰年、東京芸術大学美術学部長となる。世界遺産ユネスコ親善大使に任命さる。
  • 59才己巳年、東京芸術大学学長となる。
  • 62才壬申年、文化交流・文化財保護への貢献に対して、フランス政府よりコマンドール勲章を授与される。
  • 63才癸酉年、文化功労者として顕彰される。
  • 65才乙亥年、東京芸術大学学長を退官。
  • 66才丙子年、日本育英会会長に就任する。フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章を受章する。日本美術院理事長に就任。
  • 67才丁丑年、故郷の広島県瀬戸田町に平山郁夫美術館が開館する。
第七運 68才~78才 己丑
 己甲干合、水旺四年合去。土旺六年化土し、甲は戊に化す。前運の喜を引き継ぎ、印の甲木が去、または戊土に化すことにより五行流通は阻害されるが、 日干強であり、土旺も「土衆成慈」であり、喜の傾向性ある大運。食傷の才能発揮、創造活動への意欲衰えず。
 ただし、無木となったことにより、火の心臓、水の血液・血脈、循環器系の病気に注意を要する。事実、高血圧の持病あり。
  • 68才戊寅年、文化勲章を受章する。
  • 69才己卯年、フランス学士院、碑文・文芸アカデミー客員会員となる。米スミソニアン協会より、ジェームズ・スミソン賞受賞。
  • 70才庚辰年、奈良薬師寺玄奘三蔵院に寄進するための、構想三十年、実制作期間二十年に及ぶ大作「大唐西城壁画」が完成する。 これは、足かけ17年にわたるインドの旅から仏法をもたらした中国・唐代の高僧玄奘三蔵の足跡をたどるものであり、平山郁夫の取材旅行の集大成・総決算として奉納された。 絵殿は小さな講堂ほどで、高さ2・15メートル、幅50メートルの大壁画である。
  • 71才辛巳年、タリバンによるバーミアン大仏の破壊について各国美術館に呼びかけ抗議声明を発表する。春の院展に「バーミアン大仏を偲ぶ」を急遽出品。 フィリピンのマグサイサイ賞を受賞する。
    東京芸術大学学長に再任される。
  • 72才壬午年、中国政府から文化交流貢献賞を贈られる。
  • 74才甲申年、登録に尽力した北朝鮮の高麗古墳群がユネスコ世界遺産に登録される。韓国の修交勲章興仁章を受章する。
  • 75才乙酉年、パキスタン政府より「国際文明理解と調和の大使」及び「タキシラ名挙市民」の称号を受ける。東京国立博物館特任館長に就任。東京芸術大学学長を退任。
第八運 78才~88才 庚寅
 庚丙尅、庚甲尅の情不専。一寅三午の火局半会以上、寅申冲の情不専。庚金水源となるが、木旺の寅支は時干甲木の根となり、日干丙火は有気となる。忌の傾向性ある大運。
  • 78才戊子年、春頃、脳梗塞となる。すべての名誉職から身を引き静養に努める。
  • 79才己丑年、自宅にこもって絵の制作に専念。深夜まで絵筆を握ることもあったという。6月に脳梗塞が再発し、入退院を繰り返し、10月下旬より入院治療となる。 12月2日乙亥月辛巳日脳梗塞にて死去。

最後に、本命の輔映湖海の象に由来すると考えられる事象についてまとめる。

① 原爆の被爆は時代・国土にその原因を帰せしめるべきであり、個人の命運を越えていると考える。しかし、被爆の悪因を平山郁夫は良因と化せしめている。つまり、「一枚でいいから、自分の気持ちを完全に注ぎ込んだ作品を描きたい」と思い定め、努力する精神の積極性で、結局自分の命を救い、画家としての方向性を見いだしたこと。
② 仏教からシルクロード等をテーマとした絵、あるいは、文化財赤十字構想等の社会活動の根底に、愛と智の結実としての、平和への願い、平和への祈りが貫かれていること。
③ 無限の創造性が感じられること。輔映湖海は、反省と向上の終わることのない持続であり、本命は年干の庚金の通関があることで、食傷の戊土が来ても、輔映湖海を阻害しないところがよろしいといえる。才能発揮の戊土が巡ると次なる飛躍の転機となる。

 筆者は、生前の平山郁夫画伯に知人を介して出生時間をお尋ねしたことがあります。 「そういうものは(人の命運は)、あると思う。残念だが、生まれた時間は分からない」とのお返事でした。
 合 掌


【 参考文献 】

  •  平山郁夫美術館ホームページ
  •  自伝画文集『道遙か』 日本経済新聞社
  •  平山郁夫画文集 講談社
  •  以上、平山郁夫著作
  • 『道は後からついてくる』 主婦と生活社
  • 『ある家族の一世紀』 シルクロード研究所
  •  以上、平山美知子著作